子供と春の気配探し

今週のお題「小さい春みつけた」

 

春が近づいてきたな、と感じるようになってきた。

強い風、ほのかに暖かい太陽の光、植物の色、虫。

体全体でなんとなく春を感じられるのは、我々も生物だからだろう。

 

子供が小さいときに2月後半くらいになると

「春の気配」を探す遊びをした。

 

たんぽぽ

てんとうむし

ありんこ

 

このあたりを発見することができたら「春の気配だよ」と毎日子供に言っていた。

ほんとうに不思議なもので、寒かったり雨の日はアリは露骨にいない。

暖かいな~と感じるとアリはうろちょろしている。

今日外を歩いていたらアリは見つからなかったが、テントウムシを見つけた。

 

あぁ、春が来たな、春の気配だ。

毎年子供と地面を見つめ、春の気配を探す。

子供を外を歩くと、季節をとても意識するようになった。

枯れた樹が、芽が出てきて、つぼみが膨らみ、花が咲く。

川にいるカモたちも子供を連れている。シラサギも沢山いる。

植物や動物はカレンダーなんてわからないのに、毎年大体同じ時期に同じ行動を繰り返す。

とても不思議だな。若いときはこんなこと考えもしなかったが。

 

子供とこの時期に外を歩くのは好きだ。

「春の気配を探そう!」と、外を歩くのはとてもたのしいですよ。

(ちなみに秋から冬はモズの早贄を探すのが楽しい)

 

 

そういえば先日、上野公園に行ったのだが

交番の裏に2本ある大寒桜はいつも早咲きだ。

2本の桜は満開で観光客が嬉しそうにスマホを向けていた。

あぁ、上野にいった日記も書こうっと。

川口市立本町小学校に通っていた昭和末期生まれの記憶(長文)

私は昭和の末期に埼玉県の川口市民病院で生まれた。

川口市民病院は現・西友(キャメリアタワー)のあたりに存在していた。

 

 

私は平成19年に川口駅を離れ別のエリアに引っ越しているので、

そこでリアルな川口駅周辺情報は途切れている。

 

今回は昔(平成初期ごろ~)の記憶を書き連ねていこうと思う。

 

幼児のころ【川口市立中央保育所時代】

川口駅から15分ほど歩いたところにある川口神社。

川口市で一番大きな神社である。

毎年12月15日には「おかめいち」が行われ、川口駅から大層賑わう。

 

かつてここには「川口市立中央保育所」があった。

川口神社を正面から見たときに、境内の一番左上(赤丸あたり)に存在。

そのころは境内の左上にも、敷地内への出入り口があったのだが今は閉鎖され

跡形もない。

川口神社境内

私はこの「中央保育所」に通っていた。

園長は川口神社の神主さんだったと思う。

秋には銀杏拾いで、社務所の裏にある鍵が閉まっているエリアに入れてもらえたことを

今でも覚えている。(ありがとうございました)

 

中央保育園は私の代が最後で、その後閉園になったと思う。

山下先生、領家先生、中山先生、元気だろうか。その他の先生の名前は失念。

 

中央保育所は、入って右側に昼寝部屋(多分乳幼児の部屋?)があり、正面に職員室、左に行くと給食室や、フローリング貼りのような体育館のような大きな部屋があった。

あとはもう一つ、給食を食べる部屋もあった。

 

当時私は食が細く、白飯が大嫌いであったので、食事の時間は楽しいものでなく

正直ちょっと苦痛だったように思う。白飯はなぜ持参(なぜだろう)でケロッピの

丸いタッパーに入れて持って行っていた。

 

当時の私は幼稚園バスに強いあこがれがあり、見かけるたびに母親に

「いつになったら幼稚園バスに乗れるの?」と聞いていたのを覚えている。

幼い私は保育園と幼稚園の違いを分かっていなかったのだ。

世の中に「働く母」と「家にいる母」がいることも考えたことすらなかった。

 

ある日、母の知人に会った時に「いくつなの?」と聞かれ

「ねんしょー」と答えると、母が「ねんちゅーでしょ」という。

漢字がわからない私は「ねんしょー」「ねんちゅー」「ねんちょー」の意味も分からなかった。

今でいうポケモンの進化順「ピチュー」「ピカチュウ」「ライチュウ」みたいなもんだと思っていた。

進化

年月日の概念もないため「4月になるとネンチューになる」と言われても、意味不明であった。

この時の記憶は今でも忘れない。ずいぶんと鮮明に覚えている。

 

幼児~小学生のころ【川口市立本町小学校時代】

川口駅周辺には「川口そごう」が平成初期にオープンした。

7階は「子供フロア」であり、大好きだった。ディズニーストアもあったように思う。

オープン当時、しゃべる樹がある子供向けレストランがあった。

「オーク」とかいう名前だったかな。

そのうち閉店してしまい、おもちゃ売り場の一部になり、かつて客席だったところは

ぬいぐるみなどのおもちゃで埋め尽くされていたように思う。

 

エレベーター前には「キッズエリア」があり

「ぺたぺた焼き」のお店があった。

何百円か払い(多分700円とかそれなり)絵具のようなものをつかって

イラストを塗り、ホットプレートで焼いて、水で冷やして出来上がり。

私は行くたびにやっていて、母親はその間に買い物をしていたとおもう。

できあがった作品は「お風呂場のタイルの壁」にペタッとはって展示していた。

あれ大好きだったなぁ・・・。

 

大きくなってからはおもちゃ売り場に興味すら示さず、同じフロアにあるCDショップ(シンセイドウだっけ?)には良くいっていた。

あとは9階?あたりの催事(北海道展とか)も好きだったし、ファミレスもよくいった。本屋も好きだったな。

 

ファミレスは、ある時から閉鎖され中はおそらく倉庫にされていた。

結構広いファミレスだったから、物置にはとてもよかっただろう。

 

「川の流れる名店食堂街、10階でございます」

これはエレベーターの自動音声。

オープン当初はエレベーターガールがいたのだが覚えている人はいるだろうか。

今でも覚えているのは

「駅へのお出口、三階でございます」だけ。

 

10階にあった「ビッグシェフ」とてもお世話になりました。

甘味の「梅園」もありました。

ちなみに私、子供のころ「川」に落水しています・・・。

母が急いで洋服を家まで取りに行ったらしいです。

あれ何歳だったんだろう。

 

川口駅周辺で気になっていた事を書いてみる

 

・バビ男(ばびお)っていたよね。

 おもちゃのバンビの目の前に住んでいた人。

・なんかこの辺に昔児童館なかった?記憶違い?

児童館?

・昔この地図の近くに「パンプキン」っていうコンビニあったよね。

・エッチな大人の映画館「オークラ劇場」もあった。

 いつも帰り道、みんな横目でちらちらポスターを見てたな。

・本町4丁目の「植竹輪店」で自転車買ってた。

 そこしか自転車屋なかったし。あの当時でもおじちゃん高齢でした。

・かかりつけは「石森医院」小児科・内科。懐かしいな。在家先生だったかな。

・八百屋は「大山八百屋」と本町4丁目の植竹輪店の並びの「星野八百屋」。

よく買いにいかされた。

・大山八百屋の横に、酒屋があって。そこにいつも売ってる「ポンジュース」の瓶にあこがれていた。高級だから買ってもらえなかった。

 

書き出すときりがないし語り合いたい!

もっともっと気になることや、当時の振り返りをしたいがきりがない。

もしこれをみていて、当時のことを知っている埼玉県川口市民がいたら

ぜひコメント欄で語り合いたいと思う!

本当に!もしいたらコメントください。

パセリとバジルは同じもの

お題「子どもの頃に勘違いしていた、ちょっと恥ずかしいこと」

 

パセリとバジルは同じもの

25年ほど前の小学生のころの話。

近所にあったファーストフード店の「ファーストキッチン」で

白っぽい二つ折りのバンズのバーガーで「バジル」と商品名についたものがあった。

 

見た目は白いパンにこま切れになったバジルが練りこまれたものであったと思う。

当時の私は「バジル」などというおしゃれな名前の物は全く知らず

コーンスープの上におしゃれにかかっている「パセリ」なら知っていたのだ。

 

パンに練りこまれたバジルを見て小学生の私は

「ほう。パセリの葉っぱ部分を乾燥させ細切れにしたものをバジルというのか」と自己解釈し・・・

なんと20歳すぎるまでその認識だったのである!(なんてこった)

 

なぜそこまで気づかなかったのか、そして気づいたのかという話をしたい。

 

気づかなかった理由

私は田舎育ちの高齢出産の和食好き母に育てられたため、イタリアンとかフレンチとか

ピザとかパスタ(スパゲッティミートソース・ナポリタンしか出ない)とかそんなジャンルの食事が家の中で出てくることは一度もなかった。

 

ハンバーグなどのアメリカンな洋食は普通に出てきたし、ケンタッキーなども普通に食べていたが、本格イタリアン系は本当に食卓にあがったことはなかった。

その結果「バジル」という物に一切触れない生活環境だったのだ。

高校生になり友達や恋人と外食に行くこともあったが、基本的にそういう店にはいかなかった。

食べなれていない為、食わず嫌いというか抵抗感があったのだ。

今やだれでもしっているサイゼリヤだが、私が子供のころは今ほど「どこでもある感」のある飲食店ではなかった。

正直高校生の時恋人の車で連れて行ってもらうまで知らなかった。

 

そういった環境の経緯で「バジル」を知らないまま大人になった。

 

気づいた理由

20歳になり専門学校の友人と江の島水族館の近くにあるおしゃれなお店に行った時のこと。

イタリアン大好きな友人が「マルゲリータ」を頼んだのだ。

私はテーブルに届いたピザを見て

「上にのってる葉っぱは何?」

と友人に聞くと

「えっ?バジルだよ?」

というではないか。

 

私は「えっバジルってあれでしょ?パセリ粉砕したやつ」

というと友人は「????」(何言ってんだコイツ)状態。

「いや、この丸い葉っぱはバジルっていうんだよ」と再度教えてくれた。

私はかくかくしかじか、小学生時代の話をすると友人は爆笑。

 

なるほどね~笑 と納得してくれた。

それと同時に「よくこの年まで気づかなかったもんだね笑」とちょっと小ばかにされたが、私にとってはとても大きな発見だったし衝撃だった。

 

思い込みって本当に恐ろしいし、何かこんな感じできっかけがないと

一生気づかないままだったのかもなぁ・・・と江の島の店を今でもよく思いだすのである。

SNSで知り合った友達

先日、SNS断ちをしたいと投稿したが

悪い事ばかりではなかったという話もしたい。

 

SNSをしていて良かった事

①友達ができたこと

これは間違いなく最大の良かった事である。

今も遊ぶ友人たちが沢山いるがSNSを通じて知り合った仲間。

もしSNSをしていなかったら・・・この友人たちと出会うことはなかったのだ。

 

②情報が沢山入ってくること

世の中のトレンドや地域の情報がどんどん入ってくる。

話に乗り遅れる事はないのだ。

おいしいもの、おいしい店、新しくできた店・・・など、見ているだけで流れ込んでくる。

これもかなりのメリットである。

 

出会いに感謝

本当にこれは言葉の通りで、感謝している。

SNSがなかったら知り合いもいなかったし、とても孤独だったと思う。

もちろん嫌な思いもたくさんするのだが、友達がいないよりはましだ。

飲みに行ったり、ランチにいったり、愚痴を話したり。

出会いがSNSだったから、お互い趣味も性格も包み隠さず話している状態で

知り合っているせいか、リアルで会ってもとても気楽。

 

これから新しい友人は作らないかもしれないが、今いるSNSで出会った友人たちは

大切にしていきたいと思っている。

 

見ているわけではないが、これからもよろしく・・・と綴っておく。

自分でも不思議になる過去の行動

今更だが「なんであの時あんなことしてたんだろう?」と思う時がある。

 

幼少期の謎行動

水泳教室に通っていたのだが、始まる前にみんなでそろって準備体操をする。

当時通っていた水泳教室は「東急スポーツクラブ オアシス」という名前だったと思う。

結構な人数で、クラスごとに並びミッキーマウスマーチに合わせて体操をした。

毎週通っているのに、どこに並べばいいのかいつもわからない。

いつもなんとなくうろうろしていると誰かが教えてくれてなんとかなっていたのだろうか、その辺は記憶がないが・・・。

とにかく毎回、「どこの列に並べばいいのかわからない」という状況であったのは間違いない。

 

高校での謎行動(下駄箱編)

休み明けなどに下駄箱の場所がわからない。

上履きを持ち帰ってしまっているからだ。

毎日通っているのに、である。(なぜか下駄箱には名前が書かれていない)

一番左の列であるのはわかっているのだが、上から二番目か三番目かが

いつも覚えられない。

じゃぁ何か目印にシールか何か貼ればいいんじゃない?と今になって思うのだが

当時の私は何もしなかった。

いつも自信なく「多分ここだな・・・」と靴を置いていたのを覚えている。

 

高校での謎行動(時間割編)

高校の時間割を家に持って帰っておらず、教室の黒板の横に貼ってある時間割表を

毎日眺めていた。

ロッカーがあるため全部置き勉していたため、あまり困ることはなかったのだが。。。

よく友達に「明日の時間割なんだっけ?」とメールしていた記憶がある。

友達も「しょっちゅう聞くくらいなら写メでもとっとけや」と思っていた事だろう。

それでもなぜか写メも撮らず、メモにすることもせず一年間過ごしていた。

大人になってからも、なぜ私はあの当時写メもメモもとらなかったのか全く理解できずにいる。

 

大人になってからも続く謎行動

リボンむすびが覚えられない

いつもなんとなくやっているのだがいわゆる「縦結び」になってしまう。

(たまに奇跡的に成功する)

そのたびにYouTubeなどを見てやり方を見て「なるほどね~」と

その時はしっかりできるのだが・・・また次にやるときにはわからなくなっている。

 

大人になってからも不思議で仕方がない

40近くなった今でも当時のことをしょっちゅう思い出しては不思議で仕方ないのだ。

なんであの時、こうしなかったんだろう、なんとか対処法があっただろうに、と。

今でも「リボンむすび」が覚えられない事は非常に不思議で。。。

なにか障害でもあるのか?と調べたことがあるのだが、特にそういう障害は出てこない。

とくに日常生活で困ることも今はないし、普通に生活しているが。

 

誰か、過去の私の行動や今も続く「リボン結びできない」理由を分析してくれる方はいないだろうか?

悩んでいるわけではないのだが、不思議で仕方がないのである。

 

SNS断ち

お題「来年度の目標は?」

 

今年度はSNSの厄年だった。

 

SNSでアンチアカウントが出現

私のハンドルネームやアイコンをマネして、重箱の隅をつつくような、

揚げ足をとるような小学生レベルの嫌がらせを受ける。

不愉快であることは間違いない。

(最終的にはみんなが通報してくれたおかげで消滅したようだが)

 

非公開アカウントの内容が流出

これは本当にショックだった。

顔見知りしか見れないからだ。

人間不信になったし、もう誰も信用できないと思った。

犯人はこいつかな、という人間は一人いるが確証はない。

 

アカウントの削除

これは自分の問題だが、もう続けれないと思った。

複数アカウントを持っているが、一番大きなアカウントを削除することに。

顔見知りも多く、存在意義のあるアカウントだったため削除はとても悩んだが

消滅させた。ボタン一発、簡単なものである。

 

またも流出

今度は別のアカウントだが、またもや流出。

結果として、身を引く事態に。

悪い事を書いていたわけではないが相手にとっては都合が悪い内容ではあった。

事を大きくしたくないし面倒なので身を引く。

 

来年度はSNSを断ちたい

今年度の【嫌なこと】はすべてSNS絡みで発生したもの。

つまり、私の生活はSNSを中心に回っているといっても過言ではないのである。

はっきり言ってSNS依存症の私。

暇な時間があればすぐにスマホを見る。

LINEでもSNSでも通知が来れば秒で開く。すぐに返信。

家族ははっきり言って迷惑だろうと思うし、自分でもそう思う。

歩きスマホは当たり前。片手には常にスマホ

 

別に依存症でもなんでもいい、と私自身は思っていたが

今年度は嫌なことがありすぎた。

人間不信、SNSで知り合った人間はもう心から信用はできない。

家族にもとても迷惑をかけたのだ。

 

来年度は【SNS断ち】をしたい。

実はちょっと前にSNSスマホからアンインストールしたときがある。

なんだかとても気持ちが楽だった。

アプリがなければ通知も来ない。気にならない。

なんだか解放された気分だった。

 

知り合いも多く、急に消えたらいろいろ問題になるだろうから

まずは投稿することを控えていこうと思う。

そして最終的にはROM専になりたいと思う。

自分から投稿しなければ通知(コメント)も来ないのだ。

もともとイイネの通知はウザいから切っているので

そこに関してはどうでもいいのだけど。

 

とにかく来年度の目標は【SNSを断つこと】に決めたのである。

スマホを断つのは、無理!